「はい営業三課です」「お疲れ様、人事課の梧桐です。勝呂課長います?」 採用課ではないから南森が誰なのか知らない。人事課なら知っていると判断したのだろうか。これでも従業員八百名を抱える中規模以上の会社だ。「遅くなるので直帰すると思います。携帯電話の電話番号お教えしますか?」
「そうか、じゃあ頼みます」
 080から始まる番号を向こうが読み上げる。 勝呂課長は左の引き出しの三段目に仕舞っておいたままだと言う。確認印も押していないから、本社にいるはずの赤城に押印させろという。赤城か。かなり気持ちが憂鬱だ。分かりました、と返事をして電話を切り、次は赤城の社用ケータイに直接電話をする。
「よ、こっちに直接電話なんて珍しいな。なんの用事?」
 のほほんと喋るので暇そうだ。靖悟は今あったことを掻い摘んで赤城に説明し、暇なら持ってきてほしいと頼む。やはり赤城はそれを快諾し、「早退届、早退届」と独り言を呟きながらガサゴソと机を調べている様子だ。 明日の約束というのはほかでもない、前の日曜日に赤城と約束した飲み会のことだ。
「忘れられるわけないだろ」
「明日の九時に」
 赤城が声を潜める。
「二丁目の或る晩に集合な。場所わかるよな? 新宿通りから仲通りに歩いて、交差点を右。三番目くらいの一階の路面店な」 その言葉に赤城が大層驚く。「なんでそんな遅い時間なんだ?」
「なんでってそりゃお前、中澤が予定あるからさ」
 ふーん、そう反応してとりあえずの約束を取り付ける。夜まで何をしよう。本当にすることもないし、早めに行って久しぶりに新宿を散策してみるのもいいかもしれない。南口にできたバスプールの下の商業施設も少し気になっていたところだった。
「ところで『向井さん』とはどういう関係なわけかな、梧桐くん?」
 わざと『向井さん』と呼んでいるからには本人から何かしら聞いたに違いない。そんなやつに答えてやる義理はない。
「なんにもない。申請書持ってきて」
 そうやって電話を切ってしまう。すぐにやってきた赤城に、申請書の朱入れをその場でして返す。

 土曜二十時半の新宿駅東南口は思っていたより混雑していなかったが、人通りは激しくてどこに陣取って赤城を待っていればいいのか悩む。結局靖悟は改札を出てすぐのエレベータの前のスペースに陣取り、赤城にその辺りで待っているとメッセージした。五分も待つと赤城はどこかからひょこひょことやってきて、赤くなった顔でこちらを見て破顔する。
「早いじゃん」
「そりゃ約束の時間くらい守るよ。なあ、やっぱその辺で飲みにしないか? 二丁目行くの怖いんだよ」 赤城が人混みをずんずん進んで甲州街道を行く。それに靖悟は着いて行く。しかし赤城と早瀬と中澤と、その三人と飲むのではなかったか。
「どんって誰だよ。俺の知ってる人なのか?」
「お、悪い悪い。早瀬のゲイ名。ちなみに中澤はナオ、俺は真斗だからよろしく。それぞれ、どんとナオと真斗で呼んで」
「急に言われても」
「お前は?」
「お前は? って?」
「察しが悪いな。こっちの名前だよ。ゲイ名。なんかないの?」「こっちの活動してから浅いからな、そういうのはない。下の名前で呼んでくれよ」
「じゃあ靖悟」
 普段苗字で呼ばれている仲間に、下の名前で呼ばれるのはむず痒い。
「なんだよ赤城」
「真斗だっての。これから二丁目だけど、お前明日暇か?」
 突然の質問にわずかに戸惑う。
「暇だけどなに? オール?」
「まあそんなところ。今日何あるのかも知らないのか?」
 不躾にこちらを見て唖然とするので、靖悟は頭を振って回答をする。赤城が大袈裟に溜息を吐いて、呆れてしまう。「行くってどこへ?」
「エデン」
 真ん中と思われる道を突っ切り、右折するとすぐにあったカフェ的な店『或る晩』。店内は薄暗いが、アンティークな雑貨に囲まれて小洒落ている。
「或る晩暗いん」
 と赤城が下らない駄洒落を言って扉を押し開ける。その時入り口の小さな段差で赤城が転倒して肘を擦りむく。長く見える廊下はL字に曲がっているらしく、奥から賑やかな声が入り口まで聞こえていた。
「くだらないこと言ってっから」
「やだ、ちょっと真斗大丈夫?」「大丈夫、転んだだけだから」 お客様待ち合わせ二名でーす、と大声をあげる彼をじろじろと眺めているうち、赤城がそそくさと先に行ってしまうので、置いていかれるのを恐れる子供のようにそれに着いていくしかなった。歩くとすぐ目の前に机が現れて、その左の木製のパーテーションの向こうに早瀬がいた。
「おっす、靖悟さん。ホモだったんだね」
 早瀬だけは呼び名が変わらない。いつも通りに太い腕をあげて挨拶する早瀬はやはり、同い年なのに歳下に見える愛着と愛らしさがある。なんというか少年のようなのだ。
「早瀬ひとり? 中澤は?」
「どんとナオね。俺は真斗ね」「なんかね、ナオくん直接エデン行くって。私用が長引いてるらしいんだ。だからね、これで全員揃ったからなんか食べない? ね、靖悟さん。ぼくお腹すいちゃった」「お前、飲み屋で散々食っただろ。靖悟、こいつな飲み屋で会計一万超えるくらい食ったんだぞ。飲み屋で飲みもしないで食いまくってんの。見てろいまレシートを」「ブラッディメアリーはさっき注文しておいたよ。靖悟さん、ここのブラッディメアリー、すごく甘くて美味しいんだ。或る晩の名物だよ。そういえば靖悟さん、いつからゲイなの?」「お前らはどうなんだよ」 早瀬が言う。メニュー表を見ながら、ついでのような話ぶりだった。 確かに一万飛んで千二百七十一円。二人きりで飲んでこの金額は中々ない。
「そんな簡単にノンケに戻れるわけ?」
「無理無理、真斗はノンケになんて戻りゃしない」
 と店員が口を挟んだ。
「店員さんも思うでしょ。ほら真斗さん、無理なんだって。ゲイの魂百まで」
「ホモは一生日陰モンでしょ」
 二人が口々に言う。あっ、と声を上げて店員が早瀬を見た。
「もしかしてどんぐりさんですか?」
「あ、そうです。でもいまプライベートで」「どんって、こっちの世界じゃすごく有名なんだぞ。どんぐりって聞いたことない? GOGOなんだけど」「ゴーゴーってなんだ?」
 愕然としたように目を見開いて赤城が返事をする。
「本気で言ってるわけ?」
「知らない」
「ストリップショーするやつらのことな。GOGO BOY。脱いだり踊ったりして肉体を見せびらかす。ノンケで言うところの巨乳が脱いで踊るストリップみたいなもんだ。ゲイは筋肉好きが多いから」
「そんなのがあるんだ」
「こう見えてぼくね、筋肉はすごいんだ」
 すごいですよねー、と言いながら店員がバックに戻っていく。
「そんなのがあるんだ。知らなかった」「大マジだよ」 赤城が聞いて、靖悟は向井との出会いを思い出す。『体売ります』。
「掲示板」
「掲示板かよ!」「はい、血みどろ」
「血みどろ」
 赤城の音頭に合わせて二人が口をそろえる。乾杯のかん、まで出た後、「なにそれ?」と聞く。
「やらないと血まみれになるっていう、或る晩の呪いだよ」
「ほら早くしろ」「あー、靖悟さんには早速呪いが」
 テーブルの下で早瀬を蹴る。血塗れになってしまった。
 ブラッディメアリーを半分くらい飲み干し、料理もかなり食べ進めた頃だった。
「靖悟って宰と付き合ってんの?」
「宰って、向井さんのこと? 向井宰さん? ぼくらの一つ上の?」「いや、べつにそういうんじゃない」 向井とは付き合っていない。ただし肌を重ねた回数だけ見れば、セックスフレンドと呼ぶに相応しい関係だ。部屋にだって遊びに行ってるし、デートのようなことだって何回かしている向井との関係は『どうなって』いるのだろう。傍から見た赤城や早瀬の想像する関係の方が、自分の思い浮かべる関係よりも真実に近い気さえする。「付き合う、付き合わないの話なの? 靖悟さん」
 と早瀬が聞く。
「結構会ってるんだね」
 早瀬は続けて推測する。
「二十八になる歳だろ。そろそろ自分の身の振り方考えろよな。いつまでも遊んでられないぜ。あとその、『付き合う付き合わない論』。論外。関係っていう名前に縛られんな」「最近どんが遊んでくれないから、何かなーと思ったわけよ。そしたら資格勉強なんてしてやがるの。彼氏となんか企んでるらしいから、なんか面白いことあるのかと思ったら拍子抜けだ。つまらんのさ、でもこんなどんでも一応将来のこと考えて資格勉強だってしてるんだろ」
「資格勉強なら俺だってしてる」
 靖悟がムキになって赤城に文句を言う。「靖悟さん、時代は語学だよ」「これ食ったら一旦出るぞ。俺の店行ってちょっと飲んで時間調節して、エデンだ」
「俺の店って?」
 靖悟が聞く。
「俺の働いてる店」
 うちの会社は副業禁止ではなかったろうか。